−甘いイタズラ−


午前7時。
慌ただしくスニーカーを履いて、玄関を飛び出した。
我が家から数メートルしか離れていない目的地。
あの人の家に向かって。

「おはよーございまーす!」

「あら龍ちゃん!いらっしゃい」
「おぉ、今日はやけに早いじゃねぇか」

まるで自宅のようにヒョイヒョイと上がり込んだ俺に、朗らかに挨拶してくれるおじ さんとおばさん。
10年以上の近所付き合いのせいですっかり顔馴染みだ。
いずれは「お義父さん」「お義母さん」と呼ぶことになるわけか。
思わず頬が緩みそうになり、慌てて顔を引き締める。

「樹里なら2階にいるわよ」
その言葉を聞いて、俺は勢いよく階段を駆け登った。

『ジュリ』と書かれた黒猫のネームプレート。
いつの間にかこの部屋に押し掛けるのが日課になってしまった。
普段はたわいのない会話しか出来ないけど、今日は事情が違う。
そう、ハロウィンだ。
こんなイベントを逃すほど俺は馬鹿じゃない。

日本男子、片倉龍之介!
今日こそビシッと決めてやるぜ!


前髪を素早く整え、一度だけ深呼吸。
「トリック・オア・トリート!」というお決まりの台詞を叫びつつ目の前のドアを開 けた。
しかし。
ズドン、と音を立てそうな勢いで飴玉(しかも駄菓子屋で売ってる大玉)が横っ腹に めり込んだ。

「げふ!!」

予想外の衝撃を受け、思わず床に跪く俺。

「はい、お菓子あげたからとっとと帰りなさい」
こちらを見ようともせずに淡々と読書をしている女…中谷樹里さん。
緩やかにウェーブのかかった髪に、長い睫毛。すげー美人。
俺の好きな女性。

飴玉を撃ち込まれた事にも驚いたが、その狙撃行為を『お菓子をあげた』と呼ぶ彼女 の神経は計り知れない。
そのワイルドな性格も魅力の一つなんだけど。

「じゅ、樹里さん…甘い物嫌いだったんじゃ…」
「うん。嫌いよ。
だから龍之介を追い帰すためにわざわざ飴玉買ったの」
俺のために!と喜びそうになったが、ハッと我に返る。
浮かれてる場合じゃないだろ、これは。

細い指は一定の間隔でページを捲っていく。
「とにかく帰りなさいってば。
私これから大学行くの」と告げて彼女はパタンと 本を閉じた。
鏡の前へ移動し、メイクの準備を始めている。

俺みたいな中学生なんて、眼中にないのは分かってる。
でもこのまま退き下がるのは死んでもご免だった。


「…じゃあ、樹里さんも俺に『トリック・オア・トリート』してよ」
半ばやけくそにそう呟くと、アイラインを描いていた手が止まった。

開いた窓から秋風が吹き、カーテンを持ち上げる。
一瞬だけ静まる部屋の中。
樹里さんは少し考えた後、鏡の前から立ち上がった。
俺は相変わらず入口で佇んでいる。
「…龍之介に?」
「そう、俺に」

やっと興味を示してくれたことに手応えを感じながら、ポケットを軽く叩く。
「でも…ほら。
俺、何も甘い物持ってねーから」
だからイタズラしか選択肢ないんだけど、と言うと樹里さんは呆れたように笑ってい た。

本当は俺がイタズラする側になる予定だったのにな…。
でもこうなったら仕方がない。
少しでも長く彼女と関われるなら、それくらい我慢しよう。

樹里さんがこちらに一歩歩み寄ると同時に、フローリングの床が小さく音を立てた。


さて、どんなイタズラされるんだろう。
油性ペンで髭描かれるのは嫌だな。
丸刈りにされたりして。…この人ならやりかねない…!

そんなことを考えていた時。

ふわり、と漂った柑橘系の香り。
次の瞬間には唇が重なっていた。

「…え?」

目を丸くして硬直する俺からゆっくり顔を離し、樹里さんは微笑んだ。
「イタズラ。」と言って。

ああ、駄目だ。
やっぱりこの人には勝てそうにないな…俺。

世界一甘いイタズラ。

トリック

アンド

トリート。