奇妙な 時間





ずっと、気になっていたんだ。

坂を上って、少し大通りの方へ歩くと見えてくるあの店。
いや、店なのかも判らない。
看板も何もない一軒家だから、唯の民家かも。
如かし、戸口の処には『Open』の文字。
夜通り掛ると『Close』とある。
扉はマジックミラーなのか中は真っ暗で何も見えない。

仕事帰りには何時も『Close』なので、入ろうと思っても入 れなかった。


――カランカラン……


心地よいカウベルの音。
ギッと鳴りそうな扉は思った以上に軽くて、力を少し入れる だけでスッと開いた 。

少し暗い店内(仮)にはクラシックが静かにながれていた。

「お邪魔します…」

不法侵入の様な気がして、恐る恐る声をかけた。

そこには、大きなダイニングテーブルと椅子が一つ。
テーブルの上には黒猫の縫いぐるみ。
やはり民家だったか…?


帰ろう、と物音を起てない様に踵を返した。

『お客さんですか…? 』

後ろから、そう聞えてきた。

「えっ…? 」

誰かいたのか…?
振り返って、眼を動かす。
やはり、誰もいない。

「空耳…か? 」

『あ、やっぱり。どうぞ、お掛け下さい。』

何処からか、声がする。
えー…どうしたら良いのだろう。

『あ、初めてのお客様ですか? 私、黒猫の縫いぐるみから話 してます。
どうぞ、 前の椅子にお掛け下さい。』

…成る程。
確かに声は黒猫からしているらしい。
取り敢えず、椅子に腰掛けた。
ゆったりと包み込まれる様な座り心地の椅子だった。

「えっと…。」

妙な沈黙が堪えれなくて、声をあげる。

『なんでしょう? 』

黒猫の主は優しそうな声だ。

「此所は…カフェか何かですか? 」

聞きたい事は多々あるが、順番に消化していくしかないのが 焦れったい。
猫を質問攻めにも出来ないし。

『違いますよ。』

さらりと答える。
それ以上は答えないので、こちらから尋ねるしかないようだ 。

「此所は、お店ですか? 」

『はい。』

「此所は、何屋なのですか? 」

『何でしょうね。』

一問一答。
最高の質問には、はっきりと答えない。

『少し、お話ししませんか? 』

…宗教関係か?
少し訝しげに黒猫を眺めた。
ちらりと扉に眼をやる。
大丈夫、それらしい話がでると何時でも帰る事は出来る。

「どんなことを…? 」

『どんなことでも。』

ゆっくりと答える声は、何処か楽しそうだ。

「カウンセリングですか。」

『まさか、私にそんな知識はありませんよ。』

くすくす、と笑いながら話す声は、何故か心地よい。

「貴女は、誰ですか? 」

『私は黒猫ですよ。』

「名前は? 」

『黒猫です。』

うーん…自分の事は答えないようだ。

はっきり言うと、俺には話す事も話す必要性も無い。

『お幾つですか? 』

「26です。」

『お仕事は? 』

「公務員です。」

しかし、無視も出来ない。
こちらから尋ねる事も思い付かないし。

『あ、喉が渇いたら店の前の自販機使って下さいね。』

「はぁ…。」

黒猫の意図が判らない…
と言うより、この状況は何なのだろう。

「後で何か多額の請求とか…」

『大丈夫ですよ、世間話をする程度なので。』

ふむ、どうやら此の手合いの話には慣れている様だ。
しかし…

「何故、黒猫なのです…? 」

『えっ…犬の方が良いですか? 』

聞き方を間違えたか…。
予想外の反応だ。

「いえ、何故縫いぐるみなのですか、と。」

『えっ…ああ。この方が、何だか緊張感無くて良いでしょう ? 』

緊張感…か。
確かに、人と(それも初対面の)対話するよりは些か気分が楽 ではある。

「此所は、世間話をする所なのですか? 」

『はい。』

「お金は…」

『此所は、お金では取り引きしないんです。』

お金で取り引きしない…?
今時、そんな店があるのか。
こういう類の話には、つい疑いの眼をむけてしまう。

「では何を…」

『お客様の"時間"です。』

時は金なりって、言うでしょう?
声は楽しそうに言った。

「つまり、君の話し相手になることが代償、と? 」

『あ、いえ。そうではなくて…』

駄目だなぁ、と声が小さく呟いた。

『此の店のコンセプトは、"お客様の楽しい時間を創る事"な んです。』

ああ、だから此所には何もないのか。

『代りにお客様の時間を頂くのですが…
これでは、お客 様を付合わせた形になっ ちゃいますね、すみません。』

本当にすまなさそうに声は謝る。

思えば、全くの初対面の相手とこれ程会話をしたのは初めて だ。
そう思い当たって自然と、笑みが零れた。

「構わないですよ、俺もこんな事は初めてで新鮮でしたから 。」

『そう、言って戴けると有り難いです。』

何だか、一気に警戒心が無くなった気がした。
いかんいかん、まだ怪しいのには変りないのだから。

「では、そろそろお暇します。」

軽く腰をあげて、掛けられていた時計を見た。

14時30分…!? 来たのが12時過ぎだった為、2時間半も此処にいたことにな る。
せいぜい40分くらいだと思っていたのに。
そんなに話し込んでいただろうか…?

『そうですか、楽しい"時間"をどうもありがとうございまし た。』

何故だろう…?
"時間"を少し強調したように聞えた。
黒猫はあくまでも、心地よい口調のままで

『またのお越しをお待ちしております。』

と楽しそうに言った。


カウベルを鳴らし、外へでる。
いつもと